Bittersweet

嵐のことでこれ以上嫌な思いをしたくない。
ただテレビを見ているだけで、ツイッターで他の情報を見ているだけで入ってくる事柄に耐えられなくなる瞬間がある。
その時、わたしは彼らを取り巻くものが得意ではないだけで、一緒に嵐のことも得意ではなくなってしまったような気がする。

今回も嵐のコンサートは落選した。
自分がFCに入会した頃は何回もコンサートに入ることができたし、会場は横浜アリーナだったりもした。
Timeは特に大好きで、尚且つ思い出深い公演だった。
目が合った、ファンサを貰った、などは積極的に勘違いしていく(そのほうが幸せなので)性分なのだか、これだけは、一度だけは勘違いではないと思いたいような事柄があった公演があったツアーでもある。
その頃から時は経ち、気がつけば露出と比例するように規模も倍率も上がっていった。
数年ぶりに入ったツアー、「LOVE」は圧倒的で、誰でも退屈しないクオリティのコンサートだったように感じた。
退屈せず、コンサートを楽しむことが出来たから、そんな理由で、わたしはまだ嵐を応援し続けていくのだと当然のように信じていた。

最近、たまに彼らの発した言葉や起きた事柄などを見ていて、自分がもう嵐のことでは「分かった気になれない」ことに気がついてはいた。
これはかなり大きなことで、今まで好きなものは起こっているすべての物事に良くも悪くも個人的な解釈をして、自分の中で理解や解決をしていた。
何かを好きになるとき、好きになった人やキャラクターを個人的に解釈することで更に好きになる。
多分自分の思うその人と他人の思うその人は違うし、100パーセントそのイメージを共有して楽しめるものではないと思った。
だからこそ、彼らに興味を持った瞬間から沢山の媒体で拾い集めた言葉や行動と自分の個人的な願望や解釈をすり合わせて、一人で楽しんでいた。

けれど、どんどんとコンサートに入れなくなり、クオリティとその評判は年を重ねる度に高みに上っていく。
嵐のことをわたしはどうしてもアイドルという言葉だけで表すことが出来ない。
アイドルでありアーティスト、そんな風に感じてしまう。
これはコンサートを見れば痛感する。
本当に誰にでも出来ることではないし、嵐のコンサートを一度体感してしまえば、嵐のコンサートがいかに素晴らしく、楽しく、計算されたものなのか、他のコンサートに入っても感じるだろう。
遠くにいるときはダンスや演出で魅せてくれ、でもふと気づいたときにはある程度の距離にメンバーがいてくれる。
五人という人数で、首を動かすだけでビジョンではなく肉眼で見られる距離に誰かがいる確率が高い。
ファンとの距離が物理的に近く、その時間も長く感じる。
他のジャニーズのコンサートに参加したときに、そうつくづく思ったのだ。
ジャニーズのアイドルのコンサートはあのクオリティが当たり前なのではないのだと。
そんなコンサートは年を重ねる毎に、倍率もかけられるお金も上がっていった。
そしてCMやテレビ、雑誌、広告、家に一日引きこもっていてもテレビをつければ一人の顔くらいは見るだろう。

気がつけば、嵐のメンバーの言葉を、どんな活字や映像で見ても、まるで今まで楽しんですり合わせて構築していた自分の世界であり、応援していた存在と地続きのものには思えなくなっていた。
もっと言えば、何かが違うような、上滑りしているような、別のものを見ているような気持ち。
どんなに露出が増えても、こんなに長い間夢中になれた初めての人たちのことを多少の波があっても一番に好きでいるのだと信じていたし、その感情を頼りにここまで来たのだ。

でも今は違う、昔の感情や感覚にすがり付いていても、どんどんとギャップが生まれるだけだ。
それは何が悪いわけでもない。
ただただわたしは、「今」というものにいつの間にか適応出来なくなっていた。

(ちなみにここから上は朝書いたものに加筆したものだ)

明け方は明け方特有のテンションというものがある。
仕事も終わり、多少落ち着いたという個人的な判断を下し、最近はまっているアイラブパスタと一年ほどプレイしているGF(仮)を進めながら、最新のアルバムを一番上から聞きなおした。
ソロ以外はやはりデジタルを押し出していてなんとなくSMAPの曲を思い出す。
特にUSJのジェットコースターで流れたあの曲みたいだ。
相葉さんのコールが盛り上がりそうな曲はらしくて大好きだし、動いている姿が早く見たい。
松本さんのソロは珍しく誰よりもアイドルっぽいような気がした。
もともと松本さんはセクシーな曲よりこういう曲が似合うと思っているので改めて聞いて幸せになった。
その後に流れたBittersweetを聞いていたらいつの間にか涙が溢れて、お茶を飲みにリビングに行けば録画しながらも流れていたニノさんSPがうつっていて更に泣いた。

二十歳の女、中学時代にはまって抜け出しきれないジャニーズのことで泣く。
家人にドン引きされ「まあまたいつか好きになるって」と心にも無い慰めを受けて、一人自室でPCを開いた。
明け方に書いた文章に加筆をしながら「いや、まだ好きだ」と確信めいたことだけは分かっているのだ。
二宮和也さんをBittersweetに重ねている時点でまだわたしは恋に近い好意を持っている。
でも同じように、何かを変えていかないと、楽しい趣味ではなくなってしまう、というのも分かっていた。
一人で泣いている時点で楽しい趣味かと問われたら難しいけれど、コンサート会場に入ったとき、暗転したとき、C&Rをしたとき、何年たとえ入れなくても、露出の量で距離を感じても、熱愛報道が出ても、結婚しても、多分それでも全部のことをぶっ飛ばしてくれるくらい幸せにしてくれるものに出会えているのだ。

情緒不安定で面倒な性格のせいでこうやって、云々かんぬんと考えてしまうけれど、本当は露出が多いことも人気があることも全て幸せだと捉えていけばいい。
ただ、それは凄く凄く自分にとって難しいことだったりする。
ここまで書いておいて、ただ自分が厄介な性格なことがつくづく分かった。

ちなみに明け方、一番恐ろしい、と思ったのは嵐を好きでなくなったらわたしには何も無くなるのだ、と痛感したからだ。
こういったら大げさだし、読書や文章を書くことも好きだし、NEWSや洋服やピアスやアニメやグリマスやGF(仮)、可愛い女の子など、他にも幾つか好きなものはある。
でも、今まで生きてきた中でひとつあった何かを選ぶときに基準にしているほどの軸が急に抜けてなくなるような恐怖を覚えたのだ。

過去の記事ではNEWSのことを幾つか書いているけれど、これからすぐに切り替えられるほどフットワークは軽くなかった。
それくらいあっさりと切り替えられたら、そもそも嵐のことでもこんなに悩まないで済んだだろうし。
NEWSに関して、嵐の熱量が下がったから興味を持ったことは否定できない。
ただ、それ以上に圧倒的な王子様力、そして安定感と王道のアイドルという姿に惹かれたのも事実だ。
NEWSを見たとき、わたしは「そうだ、わたしはこういうアイドルを求めていた」と心底思った。
嵐の、プロフェッショナルで大人すぎる立ち振る舞いは、心が余りに幼いわたしにとってはどうしても物足りなく感じてしまうときがある。
それが如何に我侭で、彼らを信じることの出来ない貧困な人間なのかはよく分かっている。
どちらも違うから、どちらも違ったかたちで、沢山好きになりたい、というのは個人的な希望だけれど、それは自分でそうしようと思って出来るものでもない。

ひとつのことを好きになるとその「好き」を取り巻く中で嫌いなものが生まれる。
「好き」なものの規模が大きければ大きいほど、需要の代わりに嫌いも生まれてしまう。
わたしは、ひとつでも嫌いなものは少なくありたいと願ってはいるけれど、酷く器の小さい人間で、未だに許せないことや、耐えられないことが目に付くと苦しくて、目を閉じたくなる。
これから深く知っていくNEWSやそれ以外のたくさんのことでもきっと同じ思いをするだろう。

それでも、ジャニーズ大好き、アイドル大好き、楽しい、と一日でも多く恋をしていたい。
二宮和也さんが芸能人の中で一番好きで、結婚したらショックで泣いてみたり、でも少し経ったら落ち着いて、幸せになって欲しいなんて思って、そんな風にこれからもずっとファンでありたい。

最終的に言葉を重ねた結果、この結論に落ち着いたことに心の底から安堵している。
きっと明け方につらつらと書いたものも、今まで感じていた自分の感情ですぐに消えることも無い。
また媒体で感じたことでフラストレーションを溜めることもあるだろう。
そんなときにもBittersweetを聞いて、落ち着いてみたら、きっとまだわたしは恋をしているのだと再確認できるような気がした。