自分にとっての嵐を考えた(1)

文章は紙とペンさえあれば書ける。
けれど、いまは携帯電話さえあれば書ける。
パソコンのメモが書きやすい、原稿用紙が良い、iPad的なやつ(情弱ですみません)が一番、なんていう使いやすさの順位はあるかもしれないけれど、思い付いた言葉を、そのまま保存することが出来る最小単位は紙とペンや携帯なのだろうなぁと思いながらはてなブログを開いた。

わたしにはいま綴りたいことが多すぎて、困っている。
でもそれのひとつひとつがどれも個人的かつ私的なもので、また人を不愉快にさせないかとヒヤヒヤもしてしまう。
それでも書くことしか出来ないので書いている。

最近aikoがMステで紹介していたアカシックの8ミリフィルム、という曲を初めて聞いたとき涙が出た。

あのとき8ミリフィルムにある歌詞の節々がわたしの傲慢なアイドルに対する感情を表していたからだ。

たとえば
「正直いうけどステレオタイプの未来は全然あってない」
「誰とも結婚なんてしないで さよならだけして」
「君の才能が欲しかった 超好きだったのにな」
「感情なんてなくたっていいじゃん なんて嘘よ」
などなど。
YouTubeの埋め込みが出来ないけれど公式にPVが上がっていて、そのセンスも、ボーカルのキーが高くブラックなほどかわいらしい女の子の歌声がグサグサと刺さった。

言葉、というのは声に出したり紙に書いたり、内に秘めないでどこかに発散することで整理できたり、「実はわたしはこう思っていた」とわかるのだと思っている。

8ミリフィルムを聞いたとき、わたしは直ぐに二宮和也さんのことを思い出した。
上記の歌詞を人間に求めるのは正直傲慢だと思う。
しかもアイドルに。
でも反射的にわたしは共感してしまった。
その理由が昨日分かった。

嵐を知りそのまま好きになったわたしはそこからひとつも成長していない。
小学生のころに好きになり、付き合いたいとは思わなくても、嵐は仕事の媒介を通して知るもの以外に何もバックグラウンド(努力やプライベート、大人の事情とされる事柄、本人の気持ち、世間、やるべきこと、優しい嘘)なんて興味も、バックグラウンドがあることを考えたことがなく、ただのファンタジーだった。
あの頃の嵐の雑誌やテレビが本人のありのままだと思っていたと形容するのが近いかもしれない。
ファンタジーとして好きになったら、ファンタジーとしてしか愛せなくて、わたしは今、「バックグラウンド(努力やプライベート、大人の事情とされる事柄、本人の気持ち、世間、やるべきこと、優しい嘘)」があることを知っているのに幼いときに植え付けたファンタジーとしての嵐を引き剥がせないまま、子供のまま、傲慢で怠惰な愛し方をしている。

昨日NEWSのコンサートの前に一緒にコンサートにお友だちとお話をした。
お友だちと呼ぶのはおこがましいかもしれないけれど、とても文才や言葉選びが適切で、考察もしっかりした頭の良い方だ。
お友だちはあと二つほど応援しているグループがあり、わたしもNEWSと嵐どちらも応援していて、自分に罪悪感を覚えるという話をした。(他の人のやり方は別に気にしない、自分の問題として)
なおかつ、この前のブログのようにNEWSは自分で選んで好きになり、嵐は自我が芽生えるのと同じように好きになっていて離れられない。
会話を重ねていく内にわたしはこんなことを言った。

「子供のころに二宮和也っていれずみがいつの間にか恐ろしいくらい濃く、入ってしまったんですよね」
「今さら好きとか嫌いとか解離だとかコンサート当たらないとかそういうのじゃなくて、もう取れないんですよ、二宮和也といういれずみが」
「だから多分自分で選んで好きになりたい、知りたい、じゃないから、(あり得ないですけど)嵐を好きじゃなくなることもきっと自分で選べない瞬間に来るんだと思います」

言葉にして、ゾッとした。
(気持ち悪いオタクという意味では本当に申し訳ないですがそれは元々なので)

二宮和也さん、嵐のことをわたしは動けなくて、選べなくなっている。
どんどんと国民的になっていくのを眺めながら、わたしが子供のころに作ったファンタジーとしての嵐とのギャップに勝手に不満を抱いても、それでも好きなものは好きなのだ。

多分大したことは書かない。
これからも良いことも悪いことも起きたこと全て幼い頃のファンタジーとのギャップや、テレビとファンの感覚のギャップ、願望、そんなものに勝手に困ったり、悩んだり、泣いたりしながら、わたしは取れないいれずみがあって、「嵐を好きで、本当に辛くて、ジャニオタやめたいんですよ」なんて言葉の裏側に8ミリフィルムの歌詞である「寝る前に考えないことなんてわたしはない 8ミリフィルムのように綺麗なもんじゃない」という気持ちを張り付けて黒霧島とか飲んで、またジャニーズ論を語るんだろう。