20150613 NEWS white(2)

なんとなくぼーっとしている。
ネットをしている時点で「書くこと」か「描くこと」それに近いことが好きな人間なんだろうと思うので、珍しいことでもなんでもないんだろうが、コンサート終わりにセットリストを検索し、そこからNEWSがどの曲でどこの位置に移動したかみたいなのを、ノートを買いに行き書き留めた。
終わった後、日付すら越えた時間にわたし個人の記憶で思い起こしたものなので信憑性には些か欠けるものの無いよりはましかと思って書いたし、書いたらすっきりするのが分かっていたので書いた。
この曲のときにトロッコがスタンバイ、というところまでは覚えてなくて残念だ。
ここらへん、という曖昧な記憶が悔やまれる。
けれど、最初の書きたい初期衝動のときに、一番に紙に書きたくなるのはどうしてだろう。
調べたら出てくる便利な時代に自分の字で手を動かしてノートに書きつける充実感といったらない。
そういうときに紙はなく、ノートを買いに行ったわけだけれど。
見返していくと、自分の文字がどんどんといつもの文字に戻っていきそれまで荒々しいのが面白い。
本がなくならないようにノートもなくならないんだろうな、紙に書くという衝動は人間きっと消えない。

ここまで覚えていたのは神保町花月の影響かもしれない。
神保町花月をメモを取らないで見ると豪語したくせに帰りにたまらず上から展開を台詞込みで書いていく(自分の中ではあるあるの)アレだ。
余りにも検索で来る人が多く、少し怖くなったので再演の可能性が無いながらJUGEMで書いていたそれは非公開にしている。
もはやネタバレを越えた書き起こしレベルだし、主観が入っていることも否めない所が嫌だった。
でも今JUGEMは携帯でなくアプリを利用しないと非公開記事のチェックが出来ないので、自分が見たいときに見るという言う意味ででも再掲したいなと今ふと思った。

本日帰宅(朝七時か八時)し、お風呂に入り日記を書き片付けをして、今うどんを茹でて食べ終わり、パソコンをつけた。
ここまでの文章を書いたあたりで、セットリスト通りのプレイリストを作り、流しながら文章を書いている。
書いたって誰も読まない面白くも無いこれを書かずにはいられないのは、私が書く人間だからなんだろう。
ノートに書いて、パソコンで書いて、携帯は打ちにくいし、見直し必要だから嫌。

コンサートグッズで販売されている内輪を買った記念に、それをバックから一度出し、いつでも見られるように携帯で写真を撮る数秒も気恥ずかしく、またしまった。

コンサートのことを一応一晩置いて思い出すことにする。
(これの一つ前は今朝帰りの電車で書いたので一晩置いたにはしないことにしたが、一食挟んだしいいだろう)
またネタバレすることも言っちゃうんだろうな、と思うので空けて書く。

 

 

手越祐也さんの引力は恐ろしい。
コンサートのことでもしなにか一つ言えるとしたらそれを一番に言いたくなる。
手越祐也さんはかっこいい。
購入したカレンダー、小山さんのここがいい、増田さんのここがいい、加藤さんのここがいい、とご一緒した方とどきどきしながら一枚一枚捲った。
きゃー、きゃー、と捲る中、手越さんのときが一番ときめかなかった。
それは「かっこよすぎる」ポテンシャルを持っていることが当たり前だったから、いつも通りかっこいいなあというかっこよさ慣れだと思われる。
カレンダーの写真が特別カッコイイのではなく、テレビでも雑誌でもわたしが知っている手越祐也で、今日はちょっと・・・なんてことはない。
それはジャニーズで女の子のような端正な顔立ちで顔を見慣れていて露出があるので、いつもかっこいいと感じるという風にイコールで結びつけるのは短絡的に思えた。
だからコンサートで手越祐也さんが登場したときも「金髪は映える、目立つ」とか「本当に歌がうまいなあ」と思っていたけれど、徐々にコンサートという空間に馴染む中で手越さんはとても目を惹いた。
もっと細かいことを言えば見ていなかったのに、記憶に手越さんの行動ははっきりと残っているのだ。
意識して小山さんだけを見ていたというのに、加藤さんが二番目、テゴマスは同時にトロッコで同じ方向が(余り?)なかったらかどうしてもトロッコ二台が来た場合ならコヤシゲを視線的に優先しがちだった。
なのに手越さんの笑顔も、マイクを掴んだまま大サビなど長く伸ばすところでひたすらシャウトに近い声を出す姿、一人ずつのカメラアピールで加藤さんの歓声に負けじと二つのアピールをしてカメラに体が消えないように近づき続けたり、まざまざとそういうところが思い出せる。
手越さんといえば負けず嫌いなんてイメージがあるけれど、本当に誰よりもキャーキャー言われたいんだなと思った。
凄いところは「誰よりもキャーキャー言われたい手越祐也」を見て、わたしは「もっともっとキャーキャー言ってあげたい」と思うところである。
まだ足りない、いや、多分この次もと永遠に歓声にも貪欲なんだろうけれど、だからこそ一度でも多く、あの空間で彼にキャーキャー言いたかった。
見ていないのに、覚えている、というのは、やっぱり見ていたわけで、覚えているということは印象的で、印象的なことをしていたかといったら四人の一挙手一投足全部印象的なのに手越さんが優先されるのは、彼が光っていたから。
全く分からないけれど、手越さんにあんな引力があることを知らなかった。
手越さんを甘く見ていたことになるんだと痛感するほど、あの貪欲なカメラアピールやテレビラジオの存在でもわかるはずだったのに、想定をはるかに超えた圧倒的に人を惹き付ける引力とかまばゆい光みたいなものがあった。
でもそれは、崇めたくなる程(二宮和也さん曰く神格化する瞬間)というよりもどうしたって気になる危なっかしさみたいなものも混じっていて、だからこそ余計覚えている。
次に何をするんだろう?次に何かしてしまうんじゃないか?そんな不安と期待。
努力と持って生まれた才能で培った素晴らしい歌唱力・歌声と、誰もが認める美しさと、彼が内包する危なっかしくてでも放っておけない感覚(多分貪欲さから来る)全てがごちゃ混ぜになった彼の引力はきっと誰もを虜にする。

私は昔歌をかじっていた、入院中暇な学生時代、自分は誰かにぼろくそに言われないとダメだと適当なオーディションに応募したら、ちょっとだけ引っかかったのだ。
引っかかっただけなので、別に受かったわけでなかった気がする。
事務所に所属し、ボイトレに通い、事務所審査みたいなライブを三回くらいやって、アイドルになりませんかと言われて怖くなってやめた。(多分一年くらい)
歌は下手だけど声がいい、声は持って生まれたものだけど歌は練習すればどうにかなると偉いっぽい感じの人は言った。
結構はっきり宣告された「歌はうまくない」わたしに出来ることは「歌がうまくなること」だ。
今まで何気なく聞いていた歌をレッスン曲で使うことになり、ひたすら先生と楽譜に沢山のことを書き込んだ。
いつかのsummer(嵐・ソロ曲レコーディング風景映像)の相葉さんの歌詞の書き込みと同じように、書いた。
音符も分からない、ピアノも弾けない、記号なんて>、<しか知らないけどやりかたもわからない。
強弱、ここは伸ばす、息を吸う、吐く、溜める、間、歌詞の文字のどの一文字に力を混めるか、抜くか。
>、や<、歌詞をひらがなにして強いところ弱いところに丸をつけたりした。
最初に「歌はうまくない」と言われている分、目指すところはその最初の取っ掛かりで、だから必死に歌った。
カラオケ屋にフリータイムで入り同じ曲を楽譜を見ながら歌った、本当に一生分くらい。
やっても、やっても、やっても上手くならなくて、いつも家で楽しく口ずさんでいた歌はただの練習になった。
練習はわたしにはこれ、と提示された歌で好きでもない歌を繰り返し繰り返し歌っていたら嫌になった。
歌いながらここは>がついていて、でも次の冒頭が<で一文字目を強くするからと考えるのが嫌で、嫌で、嫌で、嫌だった。
歌が嫌いになった、好きな歌を歌うことも嫌だった、メロディに声を乗せるのが嫌なのだ。

東京ドーム、規制退場を待っている間に手越さんのソロの話をしていたら、今書いた自分のことを思い出した。
手越さんが自分でボイトレをつけ、練習をしたという話がよぎったときに思い出した。
そして自分の弱さも、手越さんの強さや覚悟がある意味リアルに感じた。
ジャニーズだからという風潮の残る世界で、デビューした手越祐也さんの今の歌声はとんでもない。
弾き語りの「あなた」は、間も、呼吸も含めた全ての世界が手越祐也さんのものだった。
彼一人の声に包まれて、反響する彼の声の残り一つ一つも、奏でる音も、語りかけるような歌声も、全部が美しかった。
さくらガール、「そんなこと知らない僕に何が出来たって言うのさ」という手越さんのパートの身を切られるような切なさに目が潤んだ。
CDでも苦しくなるのに、生歌はここまで凄いのか、と。
歌だけで、涙が出るなんて信じられない。
手越さんの歌が上手いことを前提に聞いていたし、NEWS自体もメインステージで歌だけを魅せる部分をきちんと作ろうと思えばそういう路線でも出来る歌唱力のバランスのあるグループだと思う。
どうして彼に引力があるのかと同じくらい、どうして彼の歌はあんなに心を掴まれるのか、結局良く分からない。
でも全てにおいて、もともとの才能という言葉で一番片付けたくない人だと感じた。

別に手越さんについて書こうと思っていたわけではないので、自分でも驚いているけれど、まぁまぁ長いしここで一区切りつけようかなと思う。